わたしの龍

わたしが知らないおじさんに出逢ったのは、七年位前のはなしで、わたしは道端で拾われたみたいなものだった。
おじさんは流れ者で、大阪から千葉に身ひとつでやってきたと言っていた。
わたしには家族がいなかったからとてもちょうどよくて、そのおじさんと家族になった。
あまり人に懐かない性格のわたしが、なぜかおじさんには懐いた。
暫くしておじさんは、わたしの家の近くに引っ越してきた。おじさんがよく話すから、わたしもよく話した。わたしの人生の中で一番話をしたのがおじさんとだと思う。

そのおじさんが死んだ。

焼かれた骨の匂いが、おじさんの最期の匂いだった。
わたしはいつも街でそうしていたみたいに、死んだおじさんの骨のあとを付いて火葬場の中を歩いた。
おじさんは綺麗な昇り龍の入れ墨をしていて、「これはいいもんや、死んだらあんたにあげるから、剥いでもらって額になおしとけや。」とよく言っていた。
最期は死んで、龍ごと焼かれた。

喪失。
最期におじさんを見たのは病院だった。
あんなに我が強かったおじさんが、この日は入院生活の苦労を口にはしなかった。
別れ際、夕飯だからと食堂に行き、車椅子ごと無造作にテーブルの前に並べられたおじさんは、病気でやせ細った手をずっと振りながら、わたしが見えなくなるまでこっちを見ていた。それが死ぬ三日前のおじさんの姿だった。

おじさんが手ばなさなかった携帯電話は、なぜか通話ができない状態になっていて、何度も病院に呼びつけたくせに、ただ一度の今際にはわたしを呼んでくれなかった。
あまりに急に心臓が止まり、誰もがおどろく呆気ない最期だった。けれども、長い入院生活を予期して不意にいなくなるその潔さが、もっともおじさんらしくてやりきれなかった。
わたしは何かできたのだろうか。もうなにもかも、嫌になったりした。霊安室の外、冬になりかけている空が高くて青かった。このときに、それでもこの日を生涯忘れてはならないと強く思って、空の写真を撮ったりした。

骨になった知らないおじさんは、なぜかわたしの家にきた。納骨までの間、わたしと過ごすことになった。わたしにはもうこれがあのおじさんだという気持ちもなくなって、そもそも赤の他人の、しかも骨だなんて、わたしにはどんな意味があるのだろうかと思った。そういう訳で部屋の片隅に荷物みたいに骨壺を置いていたら、主人に諌められた。そこで、かけがえのない人であったことを思い出した。だから骨になった今、無縁のわたしの家に来ている。そういえば、おじさんはこの半年で二十キロくらい痩せたのだった。そのまま死んだのだった。わたしはおじさんの死後、人前ではあまり泣かずに過ごしていたのだけれど、おじさんの好きなおまんじゅうを「棺おけに入れてもいいですか?」と葬儀屋の係りの人に聞いたそのときに、ポロポロと涙がでたのだった。入院中はカステラとりんごジュースをほしいと言っていたけれど、病気だからと最期まで食べさせられなかった。いま、わたしの家ではおじさん専用のとてもよい場所をもらって安置されている。食事のときは一緒にごはんの湯気をたべている。「死んだ人間は湯気を食べる。」と聞いたときに、なんでそんな酷いことをと思った。病気が治るようにと神社にお守りを買いに行ったときに「病気が治ったらお守りを納めに来てください。」と言われて、悔しくて泣いたこともあった。
現実がどこからかどこまでかわからなくて、わたしはずっと浮ついている。

「しっかりせえよ。」と、よく言われた。「あんた、しっかりせえよ。」と、よく言われた。春には春を教えてくれた。夏には夏を教えてくれた。秋も冬も教えてくれた。わたしには春も夏も秋も冬も、もうずっと来ないのかなと思ったりする。こういうときに「しっかりせえよ。」と、言ってほしいと思ったりする。
声が聞こえればいいのにと思ったり、むかしそのように言われた声が、はっきりと頭の中にあったりしている。